鍼の歴史:真実のストーリー
朝霧高原治療院の田中です。
よく鍼は中国発祥なのでしょう?とか本場はあちらなのでしょう?とか聞かれることが多いです。建前上はそうなっているのですが、実際はかなり異なるようです。
今日もそういう内容の会話をしたのですが、これまでの鍼の経緯について書かれた記事を去年訳したものがありましたので、せっかくですからアップしようかと思います。
これです↓
https://www.linkedin.com/content-guest/article/origin-acupuncture-china-what-tcm-hiding-andrew-walsh
読み物として楽しんでもらえればいいなと思います。誤訳御免です。
数千年の間ほとんどのチャイニーズは鍼を利用して来なかったというのが真実のストーリーであり、チャイナ以前に中東やヨーロッパで鍼を利用していたという証拠がある。また共産党のリーダーであった毛沢東が「中医学(TCM)」を再創造し、文化的現象として世界中で商業的鍼灸を始めたことも明らかになった。
鍼の起源
鍼に関する文化的あるいは形而上的な信条を脇に置けば、鍼の理論的な起源は栄養学、薬学、マッサージ、理学療法、外科手術などと同様であることが暴かれる。栄養学の起源を追跡すればどの民族も食べることを発明したり、発見したりしていないということは明らかだろう。何を食べたら害になり、また健康を促進するのか、地球上のあらゆる人種が時間を超えて栄養学を発展させてきたのである。
すべての文化が病気を治療するために用いる薬草やミネラルのような物質を発見した。長きに渡る研究や技術の進歩によって食事の基礎的な理論が近代科学における栄養学や薬学といった形で発展してきた。
痛みを感じたことがある人ならそこをさすったり、温かいものを当てたりしたことがあるのではないだろうか。しつこい慢性の痛みを経験した人ならなんとか痛みを取るためにそこに何かを突き刺したいような衝動に駆られた人もいるのではないだろうか。古代に生きる人類が同じ考えを持っていたとは考えられないだろうか。
これまで生きてきた人類も今日我々がそうしているように痛むところをさすったり、マッサージしたりしてきたに違いない。
遡ること280万年前の人類が保護、安楽、栄養の改善のために刺したり、切ったり、焼いたりする技術や道具を開発した。過去30万年の間に近代の地球上のすべてのホモ・サピエンスは環境や健康状態をよりよくするためにこれらの発明を役立ててきた。
5千年前に人類が怪我をした部分をマッサージするだけでなく、今日の我々がしているように鋭く尖ったもので皮膚を突き刺したり切ったり、あるいは熱を痛みの治療に用いたりしていたことを示す証拠がある。
理にかなった鍼の起源は傷ついた部分をマッサージするという本能であったりあるいは生物学的プログラムであり、人類が道具を使うようになるにつれて、痛みのある部位に何かを突き刺したり、切ったり、熱を加えたりといった基本的な技術を利用し始めたものである。
人類は特定の食べ物を口にするのと同様に、身体構造に対する物理的刺激が健康促進に役立つという現象を数千年前に発見した。知識の蓄積と技術の発展に伴いマッサージは鍼に発展し、さらにそれが外科手術に発展した。
栄養学がフランスで始まったと主張する人にとって、ドイツが薬学を創出し、スウェーデンがマッサージのルーツであり、アメリカが外科手術を発明したということは非論理的であり、証拠や歴史、常識にに基づいて却下することができる。
鍼の起源がチャイナであるという神話と欺瞞は証拠があるにもかかわらず、鍼に関する多くの資料に鍼がまだ中国発祥であるとされているのを見ると成功しているといえる。
鍼の最初の証拠
1991年に5千年前の凍ったミイラのオッツィー(チロリアンアイスマン)がオーストリアとイタリアのボーダーの氷河から発見され、鍼の最古の証拠がヨーロッパから届けられた。
この狩猟収集者は身体に皮膚を尖ったもので切ったり刺したりして炭を擦り入れてできたタトゥーがあった。これらのタトゥーは装飾用ではなく異なる部分に小さな点や線などが書かれておりパターンが無いように見えた。
さらに研究が進み、レントゲン撮影したところ、点やタトゥーのある領域は男性が生前持続的な傷害を有した部位を覆っており、その他のスポットは経穴として知られている点に一致していた。
このヨーロッパ人男性はタトゥーだけでなく鍼を3400年前に行っていた最古の証拠である。
そのほかの国々からの複数体のミイラからも燃えさしで皮膚を直接焼いたり、皮膚を切ったりして炭を加えたりして作られた経穴のタトゥーを持つものが見つかっている。鍼がチャイナで始まったとされている年代より遥か以前、あるいは同じ時代のこれらの経穴ミイラはエジプトやペルー、チリでも見つかっている⑴。またギリシャやエジプトからは3千年前の石製の鍼道具も見つかっている。
鍼が記録された最古の書
鍼の技術が記録された最古の証拠は紀元前1500年頃にエジプトのパピルス紙に書かれたものであり(4)、 チャイナでは鍼の書面での記録はギリシャ、中東、インドがシルクロードを介して活発に通商を行なっていた期間(漢王朝時代、紀元前206年から紀元210年頃)に現れ始めた。この時期、中東は科学、数学、医学の世界的リーダーであり、インドから仏教がチャイナに紹介された時期、易経が作られた時期でもある(5)。最古の、そして最も重要とされている鍼の文献である「黄帝内経」は漢のものだが、鍼の技術について書かれた文献は黄帝内経が書かれた時代よりも前のギリシャやアラブで見つかっている(5)。黄帝内経は当時健康や疾病に影響を及ぼす原理を理解するための古代のモデルであった陰陽五行思想に根ざしている。五行説はインドのアーユルヴェーダの5大元素や古代ギリシャの4体液理論に多くの直接的な関連や類似点がある。
チャイナにおける鍼の隆盛と没落
鍼はチャイナでは漢の時代に発展と洗練のピークを迎えたが、知識や書籍のほとんどは17世紀には失われ、鍼治療自体も1800年代にはチャイナではほぼ見られなくなった。知識もなく利用もされないことから1800年には鍼はチャイナでほぼ消滅したが、1900年代初期にチャイナで政府から禁止されていた鍼を匿っていた大学がひとつだけあった。政府はチャイナの鍼師はシャーマニズムや迷信に基づいて猛威を振るうペテンであると見做して鍼を禁止していた。
1900年代の初めには、鍼に関する情報は数千年かけてチャイナから失われるか破壊されており、専門家によれば黄帝内経のコピー一冊さえなかったと報告されている。
日本とコリアは紀元前200年頃から鍼を実践しており、今でもチャイナから紹介された数多くのオリジナルの鍼灸書を保有しており、17〜19世紀にかけて鍼の大学もあった(7)。日本は管鍼法用の管などの器具を開発したり、5日間付けっ放しにできる皮内鍼、ヨーロッパで発展した電気鍼など多くの鍼の技術的な進歩に寄与した。
ヨーロッパと日本は鍼を神経学的作用、化学的作用、免疫作用について理解しようと研究を行った初めての国々である。
1683年にWilhelm Ten Rhijneがヨーロッパ初となる鍼の本を出版したことに伴い、多くのヨーロッパ諸国で医学として鍼が使われ出したのは16世紀であった。Rhijneは16〜18世紀にかけて日本で鍼を習い、鍼をしたり本を書いたりした多くのヨーロッパ人の1人である。
チャイナの鍼革命
1949年に毛沢東がチャイナで共産党政権を樹立すると、チャイナは西側から切り離され、労働者と農民の社会になったため、科学者や医者は農夫になるために田舎に追いやられ、農夫は医者や科学者になった。
1957年に毛沢東は農業中心経済の破綻国家を工業中心経済に変えるための大躍進政策に着手し、その結果飢餓や病気で2000〜4500万人の死者が出た。
最低限の医療制度と医者、器具、薬の不足に伴い、毛沢東は薬草や鍼といった伝統医療の復活へと舵を切った。
チャイナには正式な鍼の学校は半世紀以上にわたり存在せず、鍼がなんであるのかほとんど知る由もなかった。
毛沢東は早急にそれを作り出すよう命令し、指定の農夫や工場労働者に鍼を簡単に教育し、彼らは「裸足の医者」として知られるものとなった。鍼の原著は日本やヨーロッパから、特にジョージ・ソリエ・ド・モランによるフランスの本が使われた。
気や経絡とは何か
気は経絡を流れるエネルギーであり、伝統漢法医学が鍼をどのように理解し、使用する根底にあるものであるが、気も経絡もこれまで科学的な証明はされていない。
1929年に10年間チャイナで暮らしたフランスの銀行家ジョージ・ソリエ・ド・モランが表した解釈あるいは考えがある。
ジョージ・ソリエ・ド・モランは常々医者になりたかったが願いが叶うことはなく、また事実上なんのトレーニングをも受けることなく銀行で働き始めた。彼はイエズス会の神父からチャイナ語を習い、20才の時(1899年)に雇用された銀行で働くためチャイナに送られた。
不確かなことだがモランは北京でコレラ流行の際に鍼の効果を目撃し、彼に鍼を教えてくれる鍼の先生を探して見つけた(9)。その当時北京には鍼師はほとんどいなかったため、それはとても難しい課題だったが、チャイナ最大の都市群のひとつである広東全体、その当時、世界中に1人だけいた、と報告している(7)。もうひとつの興味深い事実として、モランは鍼に関する著作を彼がチャイナを後にして10年以上経った、そして皮肉なことにチャイナ政府が鍼の使用を禁止し、犯罪行為と決めた1929年に記し始めたということである。
モランがチャイナにいた時、彼は多くの恋物語、宗教について、オカルト、音楽、その他の雑多な題材について書いた。
ソリエ・ド・モランはその当時確立した近代科学に密接に調和した内臓や循環器などの詳細な絵や解剖の記述、チャイナ鍼の口述記録を翻訳した。
彼は神経系についての解釈はせず経絡(縦の線)と気(生命エネルギー)の流れについて記述した。
気や経絡は神経系の基礎的な理解であったのか
1800年代後半と1900年代の初めにかけて神経系の電気的な特性についての医学的理解が始まり、ちょうど理解され始めたところで神経系の詳細な描写は容易ではなかった。
19世紀初めの多くの医師たちに一般的だった理論は神経は動物の霊魂(生命力、生体エネルギー、気とも呼ばれた)が流れる空洞であるというヒポクラテスやプラトー、ガレンなどの古代ギリシャの教えに基づいていた(10)。
古代チャイナの象形文字や彫像は経穴の部位を小さな点や皮下の凹みとして示していたが、1900年代まで今日見るような「経絡」の形に結ばれてはいなかった。
近代の研究により描写された経穴の多くが事実上神経系の神経構造の同部位にあることが確かめられている。
しかしモランの気や経絡の概念は成功裏に共産党の鍼灸に取り入れられ70年代に西側諸国に示された。
今日のTCMの提唱者の多くが経絡は古代チャイナの賢人たちが知っていて西洋科学がまだ発見していない何か神経系とは異なるものだと主張している(8)。
今日まで、気や経絡の物理的あるいは科学的な証拠は見つかっておらず、より最近の古代文書の翻訳はモランやその他のチャイナ人鍼灸師による解釈の間違いを指摘している。
数千年の間に古代チャイナの医学教科書に書かれている古代言語の意味は失われ、今日のチャイナの言語とは直接的な関連がなく、現代のほとんどのチャイナの言語学者でさえ言語の正確な解釈ができない、というのが真実である。
TCM- 大躍進政策
アメリカの37代大統領リチャード・ニクソンがチャイナに訪問した1971年に西側諸国での鍼の人気が始まった。ニューヨークタイムズのレポーターだったジェームズ・リストンは彼に同行し、盲腸炎にかかり鍼を受けたことをレポートした。
反帝国北京連合病院でからは通常の近代的な麻酔下で盲腸の摘出手術を受けたがその後の術後痛のために鍼を受けた。彼は自身の経験をニューヨークタイムズの記事 “Now about my operation in Peking”に書いた。
記事はアメリカで鍼とチャイナに対する興味に火をつけ、鍼がチャイナ特有のものであるという政治的な価値を与え、ニセ科学的鍼の教科書を生産する連続した政治的プログラムやチャイナの漢方医とアメリカの医師との組織的な交換留学が始まった。
例えニセ科学のTCM鍼の手法が複数のバラバラな結果を示し、気や経絡の説明が多くの医療従事者や団体の批判や興味は薄れていった。それでも60年代にオルタナティブなライフスタイルを始めた多くの人々の興味を引きつけた。
鍼は1969年にはカリフォルニアやボストンで主に台湾や日本の鍼灸師から西側の人々にアメリカで教えられていたが、共産党の息がかかった"中医学(TCM)"が成功裏に取って代わり、今日アメリカで鍼を教えるすべての大学のカリキュラムをコントロールすることになった。
今日のアメリカでの鍼
今日のアメリカでの鍼の理解と利用はまだ共産党時代の文化的、ニセ科学的な物語に牛耳られており、多くの医療従事者や理論的な人々から正当な懐疑的態度を受け続けている。
今日ほとんどすべてのアメリカ人はチャイナ鍼を信じており、その利用と人気のためにいくつかの独特の見識を持っているが本当のところ真実からは程遠い。
70年代にチャイナが現代医学化を開始するとTCMは近代科学的手法を好みチャイナの人々から再びすぐさま置き去りにされ、現代のチャイナではあまり人気がない。
鍼は文化的なブランディングと神話からゆっくり浮かび上がり、より明確に理解され、医師やコミュニティからより効果的に利用されるようになってきた正当かつ効果的な医療分野である。
0コメント